●(1)において、コーヒーカップが確かに存在すると私たちに感じさせているのは、実は、私たちの「記憶」の作用であることを指摘しました。この単純な例は、もうふたつ、私たちの認識において重要な視点を提示しています。それは、①私たちは、一般的に、自由意思に基づいて、世界の中の特定の対象、特定の観点にフォーカスして認識をしていること、②私たちは、その対象を意味付けて(たとえば、コーヒーカップであるとして)認識していることです。
●まず、私たちは、世界を認識する場合、そのすべてを全体としてまんべんなく認識するのではなく、自由意思に基づいて、ある対象のある観点に注目して認識を行っています(中心視野)。ただ、その対象だけを切り取っているわけではなく、その周りの世界もぼんやりとは認識はしています(周辺視野)。
●この際、私たちは、自分が注目した観点に焦点を当てますので、この焦点化は、私たちの「自由意思」に基づいて行われます。
●次に、私たちは、一定の意味付け(解釈、理解)をして対象を認識しています。風景を眺める場合でも、空とか山とか川とか街並みなどと理解して風景を眺めています。この意味付けは主観的なものです。ですから、私たちは、空高く飛行するドローンをUFOと思い込んだりします。
●ところで、私たちは、何の意味付けも行わないで認識することはあるのでしょうか。たとえば、公園のベンチに座って何か考えごとをしながらぼんやりとまわりの景色を眺めていると想像してください。この場合、考えごとに没頭しているときには、「何を見ましたか」と聞かれても答えられないことがあるでしょう。おそらくこれは、意味付けの問題ではなく、私たちの意識が景色にはフォーカスされていなかったということだと思われます。焦点化と意味付けとは関連しています。
●以上のように、私たちの認識は、私たちの自由意思に基づいて、ある対象のある観点にフォーカスして行われるものであり、また、私たちの主観に基づいて、その対象を意味付けて(解釈して、理解して)行われています。すなわち、世界の認識は、私たち(意識)の有する知的作用に基づいて行われるのです。